弘行寺(ぐぎょうじ)は天台宗の寺院で、天禄二年(971年)十八代天台座主慈恵大師良源(元三大師)によって創建されたといわれています。正式には「玉明山、山王院、弘行寺」と号し、長生不動尊として知られています。
創建当初は如願寺(女元寺)と称し、現在の弘行寺の南に位置する浅間山付近(玉垣神社向かい)に堂宇が建立され、玉垣神社の別当も務めていました。なお、浅間山は、宝剣が出土するなど古墳として知られています。
江戸時代中頃、元禄二年(1689年)七月二十八日に、長柄郡下之郷村のご領主である松平信平公(松平長七郎長頼伝説のモデル)がご逝去されたため、その翌年元禄三年(1690年)中興の祖である恵観上人は、浅間山から現在の地に移し、寺名を弘行寺(ぐぎょうじ)と改名し、信平公の菩提を弔ったとされています。
現在も弘行寺では初代当主松平信平公[覺性院殿従四位前羽林次将圓洞浄融大居士]
二代当主松平信政(信正)公[温恭院殿従四位拾遺法嵓純眞大居士]の戒名が残されています。
信平公以降、下之郷村は代々鷹司松平家の領地として、幕末まで続きました。
弘行寺別当であった下之郷地区玉垣神社には、今でも鷹司松平家が寄進したとされる赤神輿の中央に鷹司松平家の家紋「上野牡丹」が彫刻されています。
大正八年(1919年)二月二十五日に、睦沢町一帯を襲った大雷雨により、火災が発生。本堂・庫裏・不動堂・鐘楼が立て続けに焼失。阿弥陀如来立像、地蔵菩薩立像、伝教大師像など数々の寺宝が焼失するも、長生不動尊様は火難をのがれ、当地の雷雨を鎮めたという伝説があります。
大正の災害の後、山門は同区の旧家で土睦村初代村長の中村甚五兵衛方にあったものが寄進され、現在の本堂・庫裡は、昭和四十八年に建立されました。
寺院年表
971年 (天禄二年) |
寺史によると十八代天台座主慈恵大師良源(元三大師)によって創建 当初は浅間山付近(玉垣神社向かい)に堂宇が建立され、如願寺(女元寺)と称す (浅間山は古墳群として知られ宝剣類、変形獣形鏡、三輪玉、和泉期の高杯などが出土。年代は5世紀後半から6世紀後半) 古文書に「女元寺村の祈禱所にて滅罪一人もなき寺」とあり |
平安後期 | 長生不動明王立像がつくられる |
鎌倉時代 | 長生不動明王立像の火炎光背がつくられる |
1658年 (万治元年) 九月吉日 |
鰐口がつくられる 「奉拝鰐口関東上総國長柄郡一庄下之郷如願寺並念仏衆五十八人」の 銘あり |
1674年 (延宝二年) |
松平信平公、四代将軍徳川家綱公より上総国下之郷村(852石)知行地を与えられ、初代領主となる |
1689年 (元禄二年) 七月二十八日 |
初代領主松平信平公、ご逝去(享年54歳) [ 覺性院殿従四位前羽林次将圓洞浄融大居士 ] |
1689年 (元禄二年) 十二月二日 |
松平信政公、信平公の遺領を継承し、下之郷二代領主となる |
1690年 (元禄三年) |
中興の祖である恵観上人は信平公の菩提を弔う為、荒廃した如願寺を浅間山から現在の地に堂宇を移転、位牌を安置する |
1691年 (元禄四年) |
恵観上人、如願寺から弘行寺と改名 |
1692年 (元禄四年) 十一月二十五日 |
二代領主松平信政公、ご逝去(享年31歳) [ 温恭院殿従四位拾遺法嵓純真大居士 ] 恵観上人、位牌を安置する |
1696年 (元禄九年) |
金箔阿弥陀如来立像がつくられる |
1733年 享保十八年 |
九月十二日 中興の祖である大阿闍梨竪者法印恵観上人が入滅 |
江戸時代 | 歴代住職、玉垣神社の別当を務める 一時期玉垣神社赤神輿を安置する 御前立不動明王立像、阿弥陀如来座像、名主をモデルとした囲碁を打つ人物像、天台大師像、伝教大師像など寺宝が多くつくられる 念仏講が盛んとなり、下之郷、上之郷、上市場合同で千日念仏が行われる 毎年八月初旬に、境内及び参道で草の市(盆市)が大々的に行われる (昭和30年代まで行われていた) |
1919年 (大正八年) 二月二十五日 |
睦沢町一帯を襲った大雷雨により、本堂・庫裏・不動堂・山門が焼失 寺宝も多く焼失するも、長生不動明王立像は救い出され、難をのがれた |
1920年 (大正九年) |
同区の旧家で土睦村初代村長の中村甚五兵衛氏が自宅の山門を寄進 本堂が再建される |
1944年 (昭和十九年) |
戦争により梵鐘が供出され、鐘撞堂が解体される |
1974年 (昭和四十八年) |
現在の本堂・庫裏が再建される |